八王子城跡三ッ鱗会

[NPO] MitsuUroko Club

八王子城跡 三ッ鱗会

■ 歴史展開:四段の石垣から殿の道

【四段の石垣から殿の道コース】

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四段の石垣は戦国遺構がそのまま残っているということで貴重な場所です。
ここを経由し山頂部へ登るコースは本格的な登山道で、帰りに通常の登山道を下ると御主殿を見学したあと、山頂部に登り周遊したコースを取れることから人気があります。
また、このコースの2/3ほど登ったあたりの山王台には「八王子城戦死者招魂碑」の大きな石碑があります。
これは落城のときに壮絶・凄惨をきわめた戦いで散った人々を供養するために建てられたものです。

■ 氏照公はこの「殿の道」を何度登ったか?

殿の道は、戦いに備えるときにショートカットで登るためにあった、とよく話されるわけですが本当のところはどうなんでしょうか。
築城した時期と落城が短いこと、移城当時、氏照は北条一族が関東に覇を成すためその先鋒として遠征に明け暮れし、最後は本城の小田原に詰めていたことから、氏照公は、はたしてこの「殿の道」を何度登ったんでしょうか?
養子として滝山城主の守護代、大石氏に送り込まれた当初はこのあたりの山野を駆け巡ったはずです。でなければこの山に城を築こうという着想はなかったでしょう。
ちなみに、「慶安の古図」では現在の「会所」の奥からの登り口ではなく御主殿の奥から登るように描かれています。

■ 四段の石垣の役割は?

殿の道、四段の石垣、指揮台石などいずれも現代なってから付けらた名称です。
四段の石垣の役割はなんでしょう。八王子城の威容を誇示するため?
はたまた、御主殿曲輪に流れ込む谷筋の土石流を防ぐための「土留め」だった可能性もあります(夢がありませんが)。

■ 石切り場? ここが城域唯一の石切り場ではない

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四段の石垣の奥、上方に「石切り場」とした記載物があります。
ただし、ここが城域唯一の石切り場と考えるのは無理があります。
この石切り場の採掘の規模からいって、四段の石垣の構築には十分だったとしても、城全体、とりわけ御主殿曲輪地区の構築には全然たりません。
このサイトの別のページで記載しているように、それぞれの構築構造で、それぞれの石切り場があったんですね。

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