八王子城跡 三ッ鱗会
江戸時代の初期(1648年)に描かれたこの「慶安の古図」には、ここを「北条陸奥守殿(氏照公のこと)御主殿」と記載しています。
八王子城跡を記載するときに使用される「御主殿」という言葉はすべてこれに由来します。
「慶安の古図」では御主殿曲輪全体の広さとしては、八拾余間x弐七間、と記載されており、現在われわれが見ているものからいってほぼ納得できる広さです。
2013年(H25)に発掘、出現した池跡のもう少し奥の山際まで敷地部があったということでしょうか。
「慶安の古図」には拾一間x七間の広さがあったと記載されています。現在の我々が現在見ているものとほぼ同じ広さと考えられます。
山頂部の要害地区を構成する曲輪群の中で中心に位置する曲輪です。
山頂曲輪を取り囲むかたちで、松木曲輪、中の曲輪、小宮曲輪、無名の曲輪などが配置されています。
現地の表示などには「本丸跡」と表記されていますが天主閣があったわけではありません。あくまで敵と戦うための砦などがあった中心地点です。
「慶安の古図」には拾間x七間の広さがあったと記載されています。
また、大きくその下をぐるりと取り巻いている「腰曲輪」が描かれており、これは現在も松木曲輪のベンチあたりから、すぐ下に見られます。
戦国当時は、正面に関東平野、中央右遠方に相模湾、また、右手には高尾山薬王院が対峙して見通せたということになります。
「慶安の古図」には参拾間x五間の広さがあったと記載されています。
また、その則(のり)面には「石がき」との記載もあり江戸時代初期には見えていたわけで、現在、見ることができませんが、「柵門下の石垣群」のようにたんねんに調査すればこれから出現、ということがあるのでしょうか。
「慶安の古図」には「アシダ蔵」と記載されています。
現在では上下に構成される数段の曲輪群を総称してアシダ曲輪と呼んでいます。
戦国当時にこの曲輪を取り囲んでいた土塁は今も明確に見ることができます。
また、上の縁(へり)の部分に沿って、御主殿地区と根小屋地区(家臣団居住区)を結ぶ、いわゆる「下の道」が通っています。今もその踏み跡をトレースすることができます。
「慶安の古図」には「太鼓曲輪」と記載されています。
尾根の上に構築されていた様子が描かれています。
御主殿地区、および山頂部(要害部)に対峙するかたちで配置されています。
「慶安の古図」には少しデフォルメされて描かれています。
これは攻め上がってくる敵軍を迎え撃つためにしつらえられた階段状の曲輪の連なりです。
現在では上下に7段、確認することができます。
「慶安の古図」に描かれていて「臺所門」と記載されています。
登城道は、「大手道(古道:八王子城特有の表現)」(上の道)と下の道の2つが主なルートであり、台所門は下の道の取っ付きということになります。
「羽柴筑前殿」とは豊臣秀吉を指しますが、秀吉はこのとき小田原攻めの最中で小田原城を取り囲んでいました。
したがってここは、その命を受けた前田利家ということになります。
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