八王子城跡三ッ鱗会

[NPO] MitsuUroko Club

八王子城跡 三ッ鱗会

■ 八王子城について


■ 八王子城の遺構復元図

フォーカスしカーソルが変化するところは関連する記載を参照することができます イメージ01 (東南上空から見たもの)


■ 北条氏照と八王子城の構築

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北条氏照は戦国時代の関東における有力な武将のひとりです。
氏照は小田原に本拠をもち関東に覇をなした「後北条一族」の三代、氏康の次男として育てられました。
彼は滝山城の城主大石定久の養子となり、のちに滝山城の城主となりました。
やがてこの城に代わる新たな城作りが急務となっていました。それは急速に日本中を制覇してきている豊臣秀吉に対峙するためです。
そこで氏照は八王子城の構築に着手し、1586年頃には八王子城に移城しました。しかし、これはいまだ建築途上のことでした。

■ 八王子城の構造

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(御主殿・会所の画はガイダンスシアター「八王子城物語」より)

八王子城は山城です。そこは深沢山と呼ばれ、現在では八王子城山とも呼ばれます。
居館部は城山の南麓にありました。
そこには御主殿が建設され、それは本丸機能をもつものと考えられます。
山頂は海抜460メートルを誇ります。
山頂周辺は要害部として構築されました。
そこには「山頂曲輪」が構築され、またそれをいくつかの曲輪が取り囲み山頂曲輪群を形成していました。
八王子城は戦国時代のほとんどの城がそうであったように天守閣は持ちませんでした。
さらに、居館部(御主殿地区)の東南下部には家臣団の居住部、すなわち、根小屋地区が形成されていました。

■ 八王子城の落城

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(ガイダンスシアター「八王子城物語」より)

1590年3月、豊臣秀吉は圧倒的軍勢を引き連れ小田原に向け侵攻して来ていました。
一方、前田利家と上杉景勝に率いられた北国軍は関東平野を北から、北条配下の支城を次々に攻略しながら侵攻して来ました。
北国軍はついには八王子城に至ります。
その時、八王子城の多くの城兵は小田原に援軍に出向き、八王子城は残された老兵などにより守護することとなりました。
6月23日、前田・上杉の北国軍はその圧倒的な軍勢により八王子城を一日にして陥落させました。
八王子城の落城は小田原の降伏を促すことになり、7月5日、「後北条」の主城、小田原城は開城されました。
氏照は兄の氏政とともに豊臣秀吉から切腹を命じられその生涯をとじることとなります。

■ 遺構

落城後、居館部は徳川家の直轄領となります。
その結果この地域は再利用されることもなく歴史遺産がよく保存されることとなりました。
しかしここは1650年以降、1900年代初頭までの間に土石流に襲われています。多くの遺構は土砂に埋もれてしまいました。
そのためこの地域は現代の我々が見る光景として、30年ほど前まではだたの山のような景色を呈していました。

フォーカスしカーソルが変化するところは関連する記載を参照することができます イメージ01

幸いなことに八王子城に関する古図が発見されました。これは1648-1649年の八王子城の様子を描いたもので、現在「慶安の古図」と呼ばれています。
この古図がその後の発掘調査を遂行する上で重要な役割を担うことになります。
         (八王子市文化財課ガイド資料より 石井義兼氏所蔵)

■ 発掘調査と復元

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本格的な発掘調査は1987年(昭和62年)から行われ、87年には御主殿に直結した石段と2ケ所の踊り場が発掘されました。
翌88年には御主殿地区と城山川を挟んだ、曳橋々台部や御主殿への登城道(大手道)、大手門跡などが調査・検出されています。

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それと並行して89年(平成元年)から90年にわたって復元工事が行われました。
出現した構造をもとに石段や石垣が復元され、御主殿に通じる登城道が再現されました。

■ さらなる発掘調査

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御主殿にいたる登城道の大規模な復元工事があって2年のち、92年、93年(平成4年、5年)にさらに深い発掘調査が御主殿地区で行われました。
ここでは多くの遺構・遺物が発掘されました。
中でも多くの礎石にささえられた2つの大型建物遺構が発見されたことは特筆すべきことです。そのひとつは御主殿でもうひとつは会所です。
そのほかにも多くの周辺建造物が出現しています。
また、多数の陶器や磁器も出現しています。さらに超特級の出現遺物は我が国では唯一のベネチア製レースグラス器です。
武器や弾丸なども発見され、これはこの地で激しい戦いがあったことを物語る証拠となるものです。

■ 2013年の発掘調査

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2013年に行なわれた発掘調査は当初は93年(H5年)にやり残した部分を補完する程度のものとして始められました。
ところがこれが予想外の大転回を引き起こすことになります。
93年の発掘では看破できなかった池遺構、それをめぐる池泉式庭園遺構、また、その中心には三尊石組構造がすえられそれらを取りまく石組のアレンジメントが発掘されたのです。
これは戦国当時の関東にはないレベルと規模をもったものです。
なお、これらは現在は埋め戻されています。

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