八王子城跡三ッ鱗会

[NPO] MitsuUroko Club

八王子城跡 三ッ鱗会

■ レファレンス

■ 要害地区

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山頂曲輪(いわゆる本丸跡)を中心として山塊部を切り崩して平(ひら)地を作り形成した曲輪群で構成されます。
さらに城域の西端の詰めの城まで展開する防御機構の全体が要害部です。
山頂部では陶磁器などの遺物の発見はあるものの遺構は検出されていません。
戦いに備えた兵糧が備蓄された建物などがあったところです。
この山頂部には戦国当時二ケ所の井戸(坎井:かんせい)もありました。

■ 根小屋地区

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関東平野が終わりそこから山地がはじまる最深部、居館地区の下に展開する、家臣団の住居があった地区です。
区割り状の遺構、掘立柱建物跡、井戸などが確認されています。

■ 居館地区

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(ガイダンスシアター「八王子城物語」の映像と石段実写から合成したもの)

石垣や土塁などで形成された大型の曲輪群で構成されます。
その中心は御主殿曲輪で、その中で核になるのは北条氏照公の御主殿です。
今でいえば本社機能がびっしりと詰まった地区ということになります。

■ 太鼓曲輪地区

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太鼓曲輪地区は、要害部から御主殿地区を挟んで城山川の対岸に対峙する尾根にあります。
ここには第一〜第五まで合計5つの掘り切りがあります。
各堀切は、420余年の歳月を経ても土砂に埋もれることもなく当時の削りとられたままの姿を残しています。

■ 御霊谷地区

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太鼓曲輪の東端と南側の台地に位置していて、城域の東南端を画しています。
八王子城の南側の守備のための施設の存在が確認されています。

■ 御主殿の名前の由来は

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八王子城跡の中で最も中心となる建物遺構は御主殿です。
どうしてこれを「御主殿」と呼ぶかですが、江戸時代の初期(1648年)に描かれた「慶安の古図」に由来します。
それにはここを「北条陸奥守殿(氏照公のこと)御主殿」と記載されています。

■ 北条氏照、二男か三男か?

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北条五代の中の三代、氏康の三男として生まれました。
長男新九郎が元服前に亡くなって二男(氏政)が嫡男となったことから、氏照は二男として育てられ、氏照を二男と記載しているものが多くみられるのもこういった事情からくるものです。

北条氏照公の姿絵は北島藤次郎著「北条氏照とその周辺」に成瀬数富画伯が描いたもので、北島氏が上著発刊にあたり表紙の絵を成瀬画伯に依頼したことによるものです。
氏照の姿絵は嘉永3(1850)年に出されたカルタの「義烈百人一首」の絵しかなく、成瀬画伯は、北条五代の早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の肖像画を参考にし、骨相学的に想像して描いたということです。
以上、氏照公の姿絵についての記述は、三ッ鱗会メンバーのKMDさんの情報提供によるものです。

■ 八王子城に天守閣はあったんですか

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ここには五層(五階建て)とかの聳え立つような天守閣はもともとありませんでした。
その根拠は1992-93年の発掘調査など数次におよぶ調査でも瓦が1枚も見つからなかったことです。
この時代(戦国)、四階の櫓をもつものは信貴山城などいくつかあります。
しかし、五層以上の天守閣をもった城郭は織田信長が構築した安土城(1579年)が最初のものです。
皆さんがイメージするような天守閣をもった城の多くは江戸時代の初期に全国的に建てられたものです。

■ 御主殿

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(ガイダンスシアター「八王子城物語」より)

八王子城跡の中で最も中心となる建物遺構は御主殿です。
どうしてこれを「御主殿」と呼ぶかですが、江戸時代の初期(1648年)に描かれた「慶安の古図」に由来します。
それにはここを「北条陸奥守殿(氏照公のこと)御主殿」と記載されています。

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御主殿地区の本格的な発掘調査は、92年、93年(平成4年、5年)にわたり行われました。
その中でこの御主殿は93年に発掘が行なわれ上の写真のような大型礎石建物跡(いわゆる御主殿跡:遺構No.[SB02])を示す多くの土台石が出現しました。
これは氏照公の執務や生活のための館であり、いわば、八王子城の本社機能がつまったビルということになります。

■ 会所

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(ガイダンスシアター「八王子城物語」より)

八王子城跡の中で会所は御主殿と並ぶ重要な建物遺構です。
会所は要人の接待を目的として作られた建物です。
今でいえばレセプションホールです。

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この大型礎石建物跡(いわゆる会所跡:遺構No.[SB01])は、現在、床まで復元されています。
八王子城の中で発掘された遺物の中で超特級のものとしてベネチア製のレースグラスがありますが、それはここで発見されています。

■ ベネチア製のレースグラス

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ここに説明が入ります。

■ 池泉回遊式庭園遺構

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2013年の発掘調査により新たな特筆すべき遺構が出現しました。
これは池を中心とした池泉回遊式の庭園です。
しかも、その中には次に記載する三尊石など石組のアレンジメントがふんだんに配置されたものです。
戦国の当時の関東平野にはなかったような規模と完成度の高いものです。
ベネチア製のレースグラスの出現や、当時の唐や国内から調達された多数の陶器などの出現と相俟って、八王子城のクラスは小田原の支城としてのレベルをはるかに超えたものです。

■ 三尊石組(三尊石)

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2013年の発掘調査によって出現した池泉式庭園の中でその中心に位置するのは三尊石です。
これは92年の発掘時にも緑地保全の規制から発掘できず、写真左のように20年間そのままわずか上の部分だけ露出していました。
これに関しては「土石流でくずれ落ちた石」などの見解もありました。
しかし、城跡ガイドホームページ編集部では一貫してこれぞ戦国時代からこの御主殿を見守りその象徴となる石ということで「戦国証言石」として拝してきました。
そして、2013年の発掘調査によりその正しさが証明されました。
見事に三尊石組として出現し、ただし、主石と右添石はあるものの左添石は残念ながら破損されて検出されました。
いずれにしても、池の構造的な造園技術の質の高さとともに、この三尊石が庭園の、ひいては八王子城の格調の高さを実証しています。

■ 城山川

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大手門の前あたりを流れる城山川で、かかっている橋は御主殿側から大手道側に渡る人道橋です。
城山川は八王子城域の西端にある詰めの城よりさらに西側、富士見台のある尾根(北高尾山稜)に端を発します。
御主殿のあたりでは、御主殿側と太鼓曲輪側を隔てる堀の役割を担っています。
写真にあるのは人口の堰で、慶安の古図にも堰が描かれていることから、戦国時代にはもこのあたりにいくつかの堰があったことがわかります。

■ 大手門

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大手門はその存在が推測されていましたが88年(S64年)の発掘調査により踏み石や土塁が検出されたことなどからその存在が確認されました。
門の形式は発掘された礎石や敷石などから「薬医門」と呼ばれる形状の門と考えられています。
現在は埋め戻されています。

■ 大手道(古道、上の道)

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「古道」は八王子城跡特有の表現で大手道と同じ意味です。
この道は来城者やある程度身分の高い方々が通る登城道です。
またこの下で解説している上の道・下の道の上の道とも同じものです。

■ 曳橋(ひきはし)

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「曳橋」は八王子城跡特有の表現で一般に使用されている引き橋と同じ意味です。
敵が攻撃してきたときに引いて取り外し敵の侵攻を阻止することを目的として構築されました。
御主殿曲輪の土塁に登って天然の堀である城山川にかけられた曳橋が取り外されたとき強固な防御が発揮されることを想像してみて下さい。
もちろん今架けられている曳橋は現代に観光用に作られたもので戦国当時はもっと粗末なものだったはずです。

■ 石垣

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八王子城の石垣はこの城塞を創る過程で出てきた石(硬質砂岩)を利用して構築されたものです。
工法は野面積み(のづらづみ)というものです。
これは、自然石を加工せずにそのままランダムに積み上げる方法です。すき間には小さな石を詰めながら積み重ねます。
これに対し、江戸時代初期に創られた城は方形に整形した石材を規則的に積み上げる方法です。

■ 虎口(こぐち)

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御主殿に対する入り口という意味で虎口と称しています。
曳橋(ひきはし)をわたった位置から御主殿曲輪に至るまで高低差9mを「コ」の字型に登り上がる階段通路として造られています。
途中、2ケ所の踊り場があります。
現在われわれが見ているものは89年(平成元年)から90年にわたって復元化工事が行なわれ修復されたものです。

■ 石段、踊り場

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1987年(昭和62年)から行われた発掘調査で出現した石段です。
虎口と御主殿の入り口である冠木門の間には2つの踊り場があります。この写真は下の方のものです。
ここには櫓門が存在したことを強く示唆する4つの大きな建物礎石があります。

■ 櫓門(やぐらもん)跡

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虎口から登る石段の最初の踊り場には4つの大きな建物礎石があります。
登城階段の位置と構造からいって、ここに見張りや指揮をするのための櫓門があったと考えられます。

■ 冠木門(かぶきもん)

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登城道の石段を登りつめて、御主殿曲輪の入り口にあるのが冠木門です。
復元というよりは戦国時代をイメージして造られたものです。
1990年に初代が作られて以来、破損度に応じて何度か作りかえられています。

■ 台所門

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登城道は、「大手道(古道:八王子城特有の表現)」(上の道)と下の道の2つのルートがあります。
下の道はこの台所門から始まるということになります。

■ 御主殿の滝

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天正18年(1590年)6月23日、落城の日、前田利家、上杉景勝の連合軍に完膚ないほどに攻め上げられ敗色濃厚の八王子城勢は、ご婦人方が次々に自刃しこの御主殿の滝下に身を沈め、そののち三日三晩、この川は血の色で真っ赤に染まっていたといわれてます。
現在は周辺の植生の変化による影響を受け滝の水量は少なくなる傾向にあります。

■ 下の道

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「上の道」に対して日常の生活のための道は「下の道」といわれ、台所門(通称)あたりからスタートします。
しかしここは道が錯綜しておりガイドの案内なしで入るのはNGです。
下の道を見られるスポットは何ケ所かありますが立体模型の屋外展示がある広場の上のあたりは比較的明瞭に戦国時代の踏み跡をトレースすることができます。

■ アシダ曲輪

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江戸時代の初期(1648年)に描かれた「慶安の古図」にこの場所を「アシダ蔵」と記載されているところから、現在はアシダ曲輪と呼んでいます。
3段ほどの曲輪で上下に構成される曲輪群からなります。
写真左は最下段に位置する曲輪の縁をグルリと取り囲む土塁です。戦国時代からの遺構です。
ここは有力な家臣の屋敷跡と考えられています。

■ 殿の道

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御主殿曲輪から直接山頂部に登る道です。
現在は御主殿曲輪の最深部、会所の奥の「マムシ注意」の表示があるところから登り始めますが、戦国時代は御主殿の背部から登る道であったと考えられます。
少し登り始めるとやがて四段の石垣が現れます。

■ 四段(四団)の石垣

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戦国時代から埋もれもせずにむき出しのまま生きながらえてきた石垣群です。
虎口から御主殿曲輪に登る登城道を構成する石垣は、発掘し出現したものを復元したしたものですがここの石垣は戦国当時からのままの遺構です。
それが来城者の根強い人気となっています。

■ 指揮台石

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誰が名付けたんでしょうか。指揮台石と呼ばれています。
たぶん近年ですね。
でも、こんな大きさのものをここに据えたのは、かつて城普請をしている人々の特別の思いがあったのでしょうか。

■ 太鼓曲輪

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太鼓曲輪には第一〜第五まで合計5つの掘り切りがあります。
その中で、これは「第五堀り切り」です。
420年の歳月を経ても土砂に埋もれることもなく当時の削りとられたままの姿を見ることができます。

■ 馬蹄段

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江戸時代の初期(1648年)に描かれた「慶安の古図」にも、少しデフォルメされていますがこの馬蹄段が明確に描かれています。
これも戦国時代に構築されたものがそのまま見られる遺構のひとつです。
これは攻め上がってくる敵軍を迎え撃つためにしつらえられた階段状の曲輪の連なりです。
上下に7段続きます。

■ 金子曲輪

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落城のとき、金子家重が守備していたとされる場所ですが詳細はわかっていません。
現在は、すぐ下に梅林が展開し1月中旬から3月まで目を楽しませてくれます。
また、対岸には太鼓曲輪尾根がよく見えます。

■ 柵門台

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柵門跡とも呼ばれます。
山頂部への現在メインの新道と、旧道および搦め手(城の裏側)からの登城道の合流点で要所になっています。
御主殿方向にせり出した台地で、山王台と双頭の位置にあります。

■ 柵門台下の石垣群

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これは2014年5月末に出現したものです。
正確にいうと、前から少し石垣が見えていたのですが、落ち葉、草木で長年積み重ねられ隠されていたものが、きれいに除かれ顕在化されたというものです。
石垣の上下の分離帯にはしっかりと「犬ばしり」がしつらえられています。
現在は、人が立ち入ることにより崩落の危険性や歴史遺構の破壊も引き起こしかねないので「立ち入り禁止」になっています。
柵門台下の登山道から覗きこむか、旧道から見とおせるように少し手を入れてありますのでそこから見上げるかして下さい。

■ 山王台

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御主殿方向にせり出した台地で、柵門台と双頭の位置にあります。
殿の道コースで山頂に登るときの一服場所になります。
ここには昭和8年に建立された大きな石碑があります。
「八王子城戦死者招魂碑」と銘され戦国時代の落城のときの戦死者を追悼するためのものです。

■ 山頂曲輪

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山頂部の要害地区を構成する曲輪群の中で中心に位置する曲輪です。
現在では本丸跡と表示されています。
落城のとき、横地監物が守備したとされています。
江戸時代の初期(1648年)に描かれた「慶安の古図」には11間x7間の広さがあったと記載されているのでこれは我々が現在見ているものとほぼ同じ広さと考えられています。
天守閣が建っていたような広さではありません。

■ 松木曲輪

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江戸時代の初期(1648年)に描かれた「慶安の古図」にもこの曲輪の記載があります。
落城のとき、中山勘解由が守備した曲輪であるとされています。
現在、数組のテーブルやイスが備えつけられていて、八王子城で最も人気のあるランチスポットです。

■ 小宮曲輪

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江戸時代の初期(1648年)に描かれた「慶安の古図」にもこの曲輪の記載があります。
落城のとき、狩野一庵が守備した曲輪であるとされています。
搦め手から奇襲で攻め上がった上杉景勝軍により最初に陥落されました。

■ 高丸

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ここに説明が入ります。

■ 八王子神社

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八王子神社は山頂部の中の曲輪にあります。
氏照公が八王子城の築城にあたり八王子権現(神社)を城の守護神としたものです。
城跡管理棟前から山頂へ向かうメインの登山道は、八王子神社に向かう表参道ということになります。

■ 中の曲輪

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山頂部にとりついて最初のほっこりとした空間が「中の曲輪」です。
雨のときの休憩などに役立ちそうな大きなあずまやがあります。

■ 坎井(かんせい)

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戦国時代、山頂部には2つの井戸がありました。1つは八王子神社の左横、現在も当時の井戸の跡があります。
もう1つの井戸(坎井:かんせい)はそこから詰の城方向へ登山道を百米ほど下ったところの右側にあります。現在はそれに手押しポンプが付けられていて水枯れの時期以外はしっかりと水がでます。
なお、ガイドグループがここの水の水質を検査機関に依頼して調査してもらったところ飲料として「不適」との結果が出ています。したがって飲むことはNGです。

■ 馬回り道

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山頂部の曲輪群をとりまくように形成された鉢巻き状の道です。
山頂部の曲輪群を取り囲むように形成されています。
まあいわば、山頂部に飼いおかれた馬のトレーニングコースです。

■ 馬冷やし(こまびやし)

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見て分かるように敵の侵攻を防ぐ目的でつくられた堀切と同じです
八王子城山の山頂地区にあり戦国に作られた遺構がそのまま残っているものです。
山頂に鉢巻を掛けたように2本の馬回し道がありますがそれが交差しているところです。

■ 詰の城

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八王子城の西側の端で城跡ガイドの守備範囲もここまでとなります。
詰城の役割としては本丸が陥落したときに最後の拠点にするために構築されたものです。
この西側すぐ下には尾根を鋭くえぐり取られたようなこの城最大の掘り切りがあります。

■ 大堀切

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詰の城から富士見台方面に向かう登山道を降り始めたところにこの城で最大級の堀切があります。
400年以上の時空を超えて、むき出しのまま残っている削り込まれた岩肌を目の前にし、戦国の人たちと同じものに触れることができます。
さらに気付いて下さい。岩肌の中央にはえぐり切りこまれた方形の空間(祈壇?)があります。戦いに明けくれた当時の人たちの祈りの証でしょうか。

■ 石塁

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土塁(どるい)と対応して考えるといいでしょう。
また、石垣と違う点は、内側と外側の両方に石積みが施されているところです。
写真のこれは詰の城のすぐ手前の登り道に沿って続くものです。
戦国時代からむき出しのまま残った石塁で戦国証言遺構です。

■ 棚沢

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ここに説明が入ります。

■ 清龍寺の滝

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八王子城の搦め手(裏手)にひっそりと眠る清龍寺の滝です。
八王子城山の山頂に向かう道はいくつかありますが搦め手側には陣馬街道沿いにある松竹橋からスタートする道があります。
住宅街を通り抜け城山登山道の起点の表示を過ぎ5分くらい進むと右手に清龍寺の滝への分岐の表示が出てきます。
渇水期には巨大な岩盤を見るだけとなります。雨の降った翌日とかが確実です。

■ ダミー

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ここに説明が入ります。